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藤野の歩み
本願寺道路
北海道開拓のためには、函館から札幌に通じる主要道路を切り開く必要がありました。
明治政府の要請を受け、東本願寺(新門跡 現如上人)によって明治3年(1870年)7月から翌4年10月にかけて工事が行われました。東本願寺は、新道切開・農民奨励・教化普及の3項目を掲げて北海道開拓をすすめ、軍川(大沼付近の地名)―砂原・厚沢部―大野・山鼻―八垂別(現在の川沿、北の沢、中の沢、南沢の4地区の総称)・尾去別(伊達市)―平岸の4本を開削、改修しました。中でも、大工事だったのが尾去別―平岸を結ぶ全長約103kmでした。ルートは、尾去別から有珠山・洞爺湖の東側を迂回し、ソウベツ,ムイナイ、定山渓、簾舞、平岸の経路を、原始未開の地を鎌や斧で切り開き、又、毒虫や狼と戦うなど困難を極めました。僧侶に加え多くのアイヌの人たちを雇い入れ、厳しい自然と戦いながら、苦難に満ちた道路造りが行われました。
明治4年10月、幅5.4mに亘って刈り分けられた中に馬も通れる巾2.7mの道路が完成したのです。
起工してわずか1年3カ月という短期間でした。この道路こそ開拓使本府に通じる第1号で、現在の国道230号線の全身です。完成後は、札幌と函館を結ぶ道路として大いに利用されたものです。
しかし、明治6年、千歳経由の馬車も楽に通れて物資輸送に便利な札幌本道(現国道36号線)が完成すると本願寺街道の通行量は激減しました。でも、明治19年(1886年)には、北海道庁が石山―定山渓間の改修に着手、27年には洞爺湖畔までの全線が道幅5.4mと広くなり、中山峠には駅逓所も設置され、人々の往来や物資輸送などに大きな役割を果たしました。
然し又、昭和に入り、定山渓―喜茂別間に鉄道網が敷設されると、通行する者はほとんどいなくなり、道路調査のための道庁・内務省の役人や表街道を歩けない罪人、脱走囚が時折通るだけであったいうことでした。そんな状況であっても、この道路は度々改修が行われ、昭和28年には2級国道として指定され、昭和33年から札幌―虻田間の舗装工事が開始され、44年に完成したのです。更に、長距離トラック、路線バス、増え続けてきたマイカーなどに対応するため、昭和59年から道巾25mの拡幅工事が行われて、現在は豊滝から小金湯にかけて工事が進められています。
中山峠には「現如上人」の銅像が建っていますが、ここが本願寺街道の最大の難所であったことを物語っています。




